0303  忘却の彼方

 何もなかったことにして去れば全てをリセットできるんだろうとは思う。けれどゼロになるということは、要らない物を捨てるのと同時に残しておきたいものも切り離すということで。つまり、私という人間が存在していたという事実はそのうち忘れ去られるということ。
 でも私は、それでもリセットしたくなることが何度もある。もしそうなれば、私はどれだけの時間、人の記憶に残るのだろうか。



 0305  足掻き

 私はまるで、目の前に人参をぶら下げられた馬のようだ。走っても走っても人参は咥えられない。それでも走り続けて、次第に私の体力は徐々に失われていく。
 少しでも長生きしたいと思うのならば、人参など食べようと思わなければいい。どうせ餓死するのであれば、最初から走ることなど諦めてじっとしていればいい。静かに死を待つ、生ける屍になることを決めればいいだけだ。
 それを受け止める覚悟があるなら、私はとうの昔に走ることをやめているのだけれど。



 0307  積木遊び

 私の手を煩わせていたことがやっと一段落着いた。私は中断していたことを再び始める。

 そう、それはまるで積木で遊ぶ子供のよう。
 私が積木で遊んでいると、一つ前に作った積木の塔を見て誰かが呟く。ここをこうしたらもっと良くなるよ。上手に出来たらご褒美をあげるよ。私は手を止めて頷く。
 一度完成した積木の塔に再び手を加えるのは骨が折れる。土台である積木を一つ抜いて別の積木をそうっと差し込む。塔が歪む。私は慌てて手を添える。今度は塔の頂上に置いてある積木の向きを変える。均衡を失い、塔はさらにぐらぐらと揺れる。ああ、もう! ご褒美なんていらないから私は別の塔を作りたい。私は頷いたことを後悔する。
 紆余曲折を経て、やっと完成する。私は中断していた自分の作業に飛びつく。ああ、なんて楽しいんだろう! 一度作ったものを手直しするより、何もない状態から作り出すことの方が何倍も面白い。私は貪るように、ばらばらの積木を好きなように積み上げてゆく。
 私はこうして、次々と積木の塔を生み出し、過去の作品に背を向けて、また新たな塔の作成に挑むのである。



 0309  電車に揺られて心も揺れて

 私は起こってもいないことを想像して胸を痛める。涙ぐむ私を周囲の人々は不思議そうに見つめる。涙がこぼれるのを手にしている本で隠す。いくら隠してももう手遅れであることは解っているのに。
 喉が鳴る。声が出そうになる。私は慌てて咳払いをして誤魔化す。こんなところで声を上げて泣く訳にはいかない。



 0314  少女にはもう戻れない

 昔を思い出していた。
 私は小学生の頃、男の子に意地悪をされるとすぐに泣き出す子供だった。そういう時私は、怒りもせず、仕返しも出来ず、ただただしゃくりあげて泣くのだった。
 何人かの男の子はしばしば、私を見つけるなりズボンを下ろし、自分の性器を掴んで私の目の前に突き出してからかった。私はそのたびに泣き出して、逆に彼らを喜ばせた。

 もしも今、私がそんなことをされたらどうだろう。恐らく私は、軽蔑の眼差しで彼らを蔑むどころか、嘲笑する余裕すらあるだろう。
 年を一つとるごとに、何かを失った代わりに何かを得てきた。きっとその頃の気持ちは、自分でも気付かないうちに何処かに置き忘れてしまったのだろう。



 0320  言葉のナイフ

 心ない言葉で傷付けられた時、私はいつも思う。私の胸は今、刃物でえぐられてる、と。心からは血が流れ出てなかなか止まらない。けれど、私を傷付けたその人物がもしも私の傷口に優しく手を当ててくれたなら、すぐに血は止まり、傷口はみるみる塞がるのだ。
 けれど中には容赦無い人もいて、彼らは私の心をまるでダーツの的のように扱うものだから、私は飛んでくる鋭利な矢を避けることも、胸に刺さった針を抜くことも許されず、ただただ泣きながら終わらない攻撃を受ける。
 私はちっとも打たれ強くなんかない。優しくされた回数より、傷付けられた回数の方が多ければ、私は自分の身を守るためにその人物から遠ざかり、なるべく関わらないようにするしかない。それが、傷を負うのを避けるためにいつの間にか身に付いた自己防衛策である。
 ああ、なんて悲しい生き方なんだろうと、私は今日も自分自身を憐れむ。



 0329  優しい空間

 針が待ち構える谷底に突き落とされた。私は真っ逆さまに落下していく。風圧で目を開けていられない。そして落ちた先に待っているのは幾千もの針の山。突き飛ばされた背中に痛みを感じながら、自分の体に無数の針が刺さることを想像した。もう駄目。私はそう思った。
 ところが、私が着地したのは針の隙間にある草むらだった。その場所は柔らかくて、暖かかった。背中にはまだ赤く腫れた痕が残っている。けれど、風に揺れる草木がその傷を撫でてくれている。傷はまもなく癒えるだろう。
 
 ありがとう。私は君に救われたの。