1102  君の味

 漆黒の水面に純白の雫を垂らして、ゆっくりとスプーンで掻き混ぜる。マーブル模様の中心は僅かに窪んでいる。
 君はコーヒーにはミルクは入れても砂糖は入れないと言った。だから私も砂糖は入れないで飲んでみた。まだまだ苦い。けれど砂糖は足さなかった。今キスをしたら、きっと君がいつも飲むコーヒーの味がするんだろう。
 口の中はまだ苦かった。君の唇で口直しをしたいと思った。



 1108  巻き戻せない現実

 私はまるで憑き物が落ちたようにふと我に返った。長い夢を見ていたようだ。楽しかった日々は幻で、実は時間は進んでいなかったのではないだろうかと思った。けれどカレンダーを見るとしっかり時は流れていて、私の希望をあっさりと否定した。



 1110  空で輝くキミへ

 キミはどう思っていたんだろう。
 私がしばらく家に帰らなかったあの頃、一日おきに食事を与えるためだけに帰ってくる私を。寂しそうな視線で私の背中を見送るキミは、一体どう思っていたんだろう。
 罪の意識は薄れつつあるけれど、きっと一生拭うことは出来ないだろう。だから私は謝り続ける。キミがいる空を見上げながら。



 1111  雨の帰り道

 今思えば、雨が降っていたせいかもしれない。定時に会社を出たのに辺りはもう真っ暗で、私は、もうそんな季節なのか、などと、まるで他人事のように思った。
 薄暗い路地裏を抜けて大通りへ出ると、色鮮やかなイルミネーションが街を彩っていて、暗闇から抜け出したばかりの私は眩しくて思わず目を細めた。
 君の仕事はまだ終わりそうにない。雨もまだやみそうにない。



 1113  感じたことを感じたままに

 憑き物はほぼ完全に落ちたようだ。私は今、もう一人の自分を封印して、本来の自分に戻りたいと思い始めている。
 言葉を紡ぐことを忘れてしまった私は、まだしばらくの間リハビリが必要だろう。私は自分の逃げ場であるこの場所からも逃げて長い間享楽に溺れていたけれど、やっぱり私がたどり着く場所は此処なんだと再認識する。
 なんでもいい。ただ昔のように言葉を紡ぎたい。



 1114  いつでも、どこでも。

 君にはどんなのが似合うんだろう。君の肌に触れるのだから、なるべくならいいものがいい。などと、いろんな店をあちこち歩き回った土曜日。疲れ果てて寝てしまい、夢の中で君と過ごし、結局ほぼ一日中眠っていた日曜日。
 そんな週末、ちっとも有意義なんかじゃない。そんな風に言われても一向に構わない。私にとってはこの上なく有意義な週末だったのだから。



 1115  野菜生活

 ドレッシングをたっぷりかける。つんとしたビネガーの香りを放ちながらレタスやパプリカを濡らして流れ落ち、底に向かって沈んで行く。まぶしてあったベーコンビッツとパルメザンチーズにオイルが染みてきらきら光っている。
 私は最近サラダばかり食べている。フォークを刺すと、レタスはシャキッという音を出して私に食べられることを待つ。これは野菜の小さな悲鳴なのかもしれないと思うと私の食欲は更に増す。身動きの取れなくなった野菜たちは完全に受け身で、従順で、愛おしい。
 明日はなんのドレッシングにしようか。あのみずみずしくて無抵抗な野菜たちを、明日はどう料理してやろうかと思いながらほくそ笑む毎日である。



 1117  明日はきっといい一日

 今日のことは今日のこと。
 一晩寝て目が覚めたらそれはもう昨日なっていて、また新しい一日が始まる。
 だから今夜は早く寝よう。今日みたいな嫌な日はさっさと終わらせて、希望でいっぱいの明日を待とう。



 1118  君においしく食べてもらうために

 ただでさえこの季節は唇が荒れるというのに、会社の私のデスクは空調の真下で、私の唇は日に日に乾いていく。
 色気もなにもない唇。私は慌ててリップクリームでケアする。私は常に、君が人目も憚らずキスしたくなるような美味しそうな唇でいたいのだ。



 1119  何にも代えられないもの

 今日ピアスを買った。君がプレゼントしてくれたムーンストーンのピアスに少し似ている。
 ピアスなんてそのうちなくすと思っていないと身に付けられない。だからこんな安物のピアスはいつなくしても惜しくないから毎日付けられる。お風呂の中でも、眠る時でも、出掛ける時も。そうして私はこれまで多くのピアスをなくしてきた。
 ジュエリーボックスの中で出番を待ってるムーンストーンのピアスは一体どう思っているんだろう。丁寧に扱われ、大切に保管されていることを喜んでいるのだろうか。それともこんなに狭い箱の中に閉じ込められて悲しんでいるのだろうか。本当はいつも一緒にいたいのだけれど、やっぱり大切なそのピアスをなくしたくはない。
 首を捻ると、私の悩みなどお構いなしに耳たぶの安物のピアスはきらきらと揺れた。



 1121  弱虫の世渡り方法

 私は誰にでも尻尾を振る訳じゃない、なんて自分では思っていても、誰からも好かれていたい八方美人であることは自覚している。平和主義を気取って、なるべく角が立たないように世の中を渡っているけれど、本当は不平不満がいっぱいで、大声で叫びたい感情を胸の奥にしまいこんでいる。
 私はどうしたいのか。どうなりたいのか。まだ答えは見つかりそうにない。



 1124  いつの間に君はそんなに強くなったのだろう

 君が私に向けて手を伸ばした。指は僅かに震えていた。私はそんな君の手をしっかりと握った。君の手は冷たかった。私が温めてあげなければと思った。もっと強く握った。君も握り返してくれた。君の手はもう震えていなかった。君の意思の強さが指から伝わって来て、今度は私は震えた。