白い風船





 遠い昔、独りぼっちの男がいました。建物も、草木さえもない荒れ果てた荒野に独りで生きていました。

 ある日、男が空を見上げると、頭上には白い風船が浮かんでいました。男はぶらぶらと揺れる風船の紐を引っ張って、自分の方に手繰り寄せました。触れられた瞬間、風船は男に恋をしてしまったのでした。
 男と風船はいつも一緒にいるようになりました。男の手首に風船の紐を結んで、散歩に行く時も寝る時も、決して離れませんでした。孤独だった男と、人の温もりを感じたことのなかった風船。今までずっと欲しくても得られなかったものをお互いに求め、淋しさを埋めるように、いつも寄り添い合っていました。


 ところが事件が起きました。ある夜、男が寝ている時、寝返りを打った瞬間に紐が解け、風船はゆっくりと空に昇っていきました。手首に違和感を感じた男はすぐに目を覚まし、紐を手繰り寄せて、何とか事なきをえました。けれど風船は悲しかった。簡単に別れられてしまう現実が悲しかった。もし男が目を覚まさなければ永遠のさよならだったのですから。風船は、その姿のままではいつか風に運ばれて男と離れてしまうから、決して動かない岩の姿にして欲しいと、神様にお願いしました。
 翌日、男が目を覚ますと風船の姿はなく、大きな岩が男の隣にありました。男は慌てて風船を捜しました。けれどどこを探しても見つかりません。男は風船のことを想って泣きました。本当はこんなに近くにいるのに、男は泣き続けていました。


 それからは、岩は常に男の隣にいました。けれど男はそれを邪魔だと思っていました。何度も何度も動かそうとしましたが、その岩はびくともしませんでした。岩は、男から叩かれたり蹴られたりしても、それでも動きませんでした。岩は男のことを愛していたから、どんなに鬱陶しがられても、どんな仕打ちを受けても、岩は男の側にいたかったのでした。
 男は岩と毎日を共にしていました。嵐の日は岩に隠れて雨風をしのぎ、灼熱の日には岩の陰で涼み、そうやっていくつもの季節を過ごしていました。男も、独りぼっちよりはいいだろうということで、岩を少しずつ受け入れていきました。それでも岩のことを愛することはできませんでした。


 岩は一方的な想いであるのにも関わらず、こんな日々がいつまでも続くことを望んでいました。とにかく離れたくなかった、傍にいられるだけで幸せだと思っていました。ところが、そんな岩の幸せは、ある日突然音を立てて崩れてしまったのです。
 男と岩が寄り添っていた場所から少し離れた所に小さな花が咲きました。草も生えていない荒れ果てた大地にぽつんと現れた赤い花。男はすぐに花に夢中になりました。朝から夜まで花につきっきりで、少しの間も花から離れようとしませんでした。男はもう岩の存在なんてどうでもよくなっていたのです。
 取り残された岩は泣きました。辛くて悲しくて、毎晩毎晩泣きました。けれど男の気持ちはもうすっかり離れてしまっていて、岩に近づくこともなくなりました。岩は思いました。男に自分はもう必要ないのだと。
 もう自分が岩でいる必要のなくなった風船は、神様に、元の姿に戻して欲しいとお願いしました。すると神様は、一度風船の姿に戻るともう二度と男には会えないこと告げました。最後の別れ。本当に辛い選択なのだけれど、この状態のまま傍にいても辛いだけなのは風船が一番解っていました。神様はその願いを受け入れ、その日の深夜に魔法を解くと約束してくれました。


 その夜も男は花の隣で眠っていました。少し離れたところから岩は男を眺めていました。月の輝く静かな夜。さよならに相応しい夜。
 神様は岩にかけた魔法を解きました。岩はどんどん縮んでいき、大きなシルエットはだんだん小さくなっていきました。その時、向こうの方で花と一緒に寝ていた男は物音に気付いて目を覚ましました。岩が徐々に風船の姿に戻っていく瞬間を目の当たりにした男は、花の存在などすっかり忘れて、萎んでいく岩に駆け寄りました。けれど男が風船の下に到着する頃には、既に岩は風船の姿になって空高く昇っていたのでした。
 男は、まさか自分があんなに邪険に扱っていた岩の正体が、自分が一番想いを寄せている風船だったとは思っていませんでした。男は一生懸命手を伸ばしましたが、風船にはもう、手は届きませんでした。
 あんなに邪魔だった岩は、白い風船に姿を変えて、暗闇の空に浮かんでいました。風船と月が重なり、白い風船は背後から月に照らされて黄金に輝いていました。
 それが男と風船の最後。それ以降、二度と会うことはありませんでした。


 それから。
 あれだけ夢中になっていた花は枯れて、男は再び独りぼっちになりました。ドライフラワーと化した花と一緒に孤独な毎日を過ごしていました。

 男は気付きました。でも、気付いた時にはもう遅すぎました。
 大切なものはいつも近くに、本当に手に届くところにあるのだと。けれど、それを知るのは手が届かないところに行ってしまってからなのだと。
 男は、それを知って、風船のことを思い出にしたのでした。




Copyright (C)2003 yukari